ロミオとジュリエット編です。主に以下の内容を含みます。
- アニメ 第八場
- ユメステ ☆1☆3流石サイドストーリー
・かんどうてきで、わかりやすいおはなしをかんがえよう!
今回は小学生に向けたお話です。
去年の演劇鑑賞会でシリウスは『リア王』をやって大失敗したので、今年は感動的で分かりやすい『ロミオとジュリエット』を選びます。ただしロミジュリも元は悲劇なため、悲劇を喜劇に書き換えて演じることに。これが今回のポイントの一つです。
【基本編】や他の話の知識もおそらく必須ではありません。単話完結で読めるお話になっています。
・ロミオとジュリエットってどんな話?
ロミジュリと聞いて思い浮かぶのはバルコニーのシーンです。「ああロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」の場面。これは原作の第二幕・第2場でやるシーンです。基本的にここを押さえておけば良さそう。
詳しく知りたい方は以下が参考になりますが、一旦リンク先は読まずに、後から戻って読むことをおすすめします。
www2.tbb.t-com.ne.jpざっくりとポイントになりそうなところを挙げます。
モンタギュー家の一人息子。まだ16才の青年で、ジュリエットを愛している。
●ジュリエット:柳場ぱんだ
キャピュレット家の一人娘。まだ13才の少女で、ロミオに恋をする。
○オリジナルの展開
モンタギュー家とキャピュレット家は、長年いがみあう関係だった。敵対する運命のロミオとジュリエットは出会い、情熱的で無垢な恋に落ちる。
ーーー
「ああロミオ、あなたはどうしてロミオなの? 早く家名をお捨てになって! それが嫌なら、せめて私を愛すると誓ってください! 名前が何だと言うの? 私たちが薔薇と呼ぶものは、他の名前で呼んでも甘く香るわ。貴方も貴方であることに変わりはないのに」
「お言葉通りに頂戴いたしましょう。ただ一言、僕を恋人と呼んでください。そうすれば生まれ変わったも同然、今日からもうロミオではなくなります」
ーーー
二人は駆け落ちを計画する。家族の目を抜けるため、ジュリエットは一時的に仮死になる薬を飲む。しかし手違いがあり、ロミオはジュリエットを死んだと誤解、毒を飲んで自害する。目覚めたジュリエットは嘆き、ロミオの後を追う。両家は一人息子・娘を亡くし、悲恋と大量の血を流した末に和解する。
○シリウス版の展開
モンタギュー家とキャピュレット家は、長年いがみあう関係だった。二人は恋に落ちる。
ーーー
「おお、ジュリエット。今まで恋をしていたのか?この心は」
「ああロミオ、愛してくださるなら、心からそう言って」
「神聖なる月にかけて誓いましょう。心からの、愛を」
ーーー
二人は駆け落ちを計画する。ロミオは毒を飲もうとするが、飲む前にジュリエットは目覚める。途中で殺される人はなく、両家もきっと和解するとしてハッピーエンド。
・いがみあいは簡単にほぐれる
原作のロミジュリは悲劇です。恋人たちは運命に翻弄され、狂い果て、両家の「いがみあい」は全てが手遅れになった後でないと解決しません。ロミジュリにおいて運命とは絶対に勝てないものです。
第八場にも様々な「いがみあい」が生まれます。しかし、どれもあっさりと解決できてしまいます。
・演目決めの争い(劇団員 vs 柊&工藤)
カトリナは柊先生に言い負かされますが、ぱんだが説得に成功します。
・観客との争い(シリウス vs 小学生&演劇博士)


去年から始まった因縁はたった1年で決着がつきます。今年は演劇博士の度肝を抜くことにも成功します。
・幼い日の争い(ぱんだ vs 流石)
幼い頃のぱんだは、何でもできる流石に立場を奪われ、腹を立てて仲違いします。バッチリ仲直りできたかは微妙ですが、今も仲良しなところを見ると、これも解決したといって良さそうです。
なにも難しいことはありません。悲劇を生む運命なんてものは、小学生が見る今回の舞台には必要ないのです。
悲劇は喜劇に書き換えられました。演劇鑑賞会は感動に終わり、最後にちょっぴり未来に希望をかけたりしながら、第八場はハッピーエンドのうちに幕を閉じます。
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・この話のなにがおもしろいの?
たぶんこれだと演劇博士は認めてくれません、1時間のお説教コースです。少なくとも舞台にストイックな柊先生が手応えを感じるはずは無いのでしょう。
頑張って何度か見直すうち、ある違和感が目を引きました。
・ぱんだは流石を見ていない


はじめの頃、ぱんだは流石のスゴさを一番近くで見ています。クラスの注目を奪う流石を恨めしそうに眺めたりもします。


そのせいで仲違いするも、この時点ではまだ、ぱんだは流石を見ています。


しかし、初めて見たシリウスの劇が関わると怪しくなってきます。流石は劇に夢中になるぱんだの横顔を見ていて、今でも覚えています。


「君の愛が得られないまま生きるのは、死よりもつらい!」
ここなんて結構ひどいコトをしています。ロミオが情熱的な言葉を伝えているのに、ジュリエットはそっぽを向いたまま。このシーンの流石は顔を下げる途中で一瞬だけぱんだに目線を送り、寂しそうに少し俯きます。
「ロミオとジュリエット」は掛け値なしの恋愛作品です。この二人の恋愛事情が関わっていることは間違いなさそうです。
・流石の気持ちの正体は?


「わたしは、そんなぱんだが好き」
流石が「好き」をどういう意味で使っているのかは誰にも分かりません。
ただ、ロミジュリには「若く幼い愛」という表現があります。劇中のロミオは16才、ジュリエットに至っては13才です。実はぱんだ達も13才(!?)ですが、第八場はさらに幼い日の話をしています。
このシーンで流石は階段を一歩下がり、高低差を作ってから気持ちを伝えます。きっとこの公園は流石にとってのバルコニーで、流石は幼い愛を囁くロミオなのでしょう。
「それから? ぱんだのいいところ!」「賢い」
「それから?」「それから……あ、かわいい」
「かわいいが最初に来るだろフツー!」
ところが、ぱんだの返事は曖昧です。かわいい>賢い>好きの順に欲しいのだとしたら、流石はフラれていることになります。
・柳場ぱんだってなんなの?
どうしても辻褄が合わないことがあります。
流石がどうやらロミオだということは分かりました。役者の流石と役のロミオが近いために、役作りで摺り合わせる距離も短く、公演もうまく行くと納得できます。
ただし、ぱんだはジュリエット役に近いとは思えません。ロミオを見ず、ロミオの情熱的な言葉を何度もはぐらかしています。役から遠いなら遠いで、役作りを頑張るのがパターンでした。が、第八場にそのような描写は見られせん。ロミジュリは両想いの話なのに……。
このまま舞台の幕を開けば、ぱんだが足を引っ張って台無しになってしまいます。


すると折よく、ぱんだはミスを起こします。これを流石がセンスで救って万事解決というわけです。
ジュリエットはお嬢様らしく、何でもできる貴公子に助けてもらうことで舞台は成功しました。失敗に終わるはずだった悲劇は喜劇に書き換えられ、二人はハッピーエンドを迎えて、物語は終わります。
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ここからは推測の多い話です。
盛大に空振りしていたら笑ってあげてください。
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・二人の運命
「ぱんだと同じ世界が見たくて」
この台詞ってどういう意味だと思いますか?
流石は捉えどころの無い子です。すこし世間とはズレているために、一般人のぱんだと同じ感性を得たいということでしょうか。それも一つだと思います。
しかし、こう考えたらどうでしょう。流石とぱんだは世界観を共有していない。
・これは本当に「ロミオ」と「ジュリエット」の物語なの?
流石がロミオなのは良いとして、ぱんだはジュリエットから遠いように見えます。それなのに公演が成功したのは、ぱんだがジュリエットではない別世界の誰かを演じていたからと仮置きして考えてみます。
「人魚姫みたいに、童話をモチーフにした演目はどうかしら?」
「しっかりと演劇を見せるなら、やっぱりシェイクスピアとかかな?」
「悲劇じゃなくて喜劇なら、小学生にも親しみやすいのかも」
この条件にピッタリな演目があります。「夏の夜の夢」という喜劇です。
そもそも「ロミオとジュリエット」と「夏の夜の夢」は、ともにシェイクスピアによって(悲劇・喜劇)の表裏の関係となるよう描かれた作品だそうです。そして「夏の夜の夢」の劇中劇として登場する「悲劇・ピラマスとシスビー」についても触れておきます。
ちょっと難しくなったので、下手な絵を書いてみました。
「ピラマスとシスビー」は、ほぼロミジュリと同じ内容です。ロミジュリの元となった作品とも言われています。さらに上映元の「夏の夜の夢」とは対となる関係を持ち、ロミジュリの裏返しの裏返しが「ピラマスとシスビー」といった立場です。
これをもとに、超ざっくりと「夏の夜の夢」*1について把握してみましょう。
妖精たちの王。魔法でどんな望みでも叶えられる。好奇心旺盛。
●ティターニア:???
妖精たちの女王。プライドが高くわがままだが、感情豊かで本能のまま生きる、少女のような妖精。
他作品にもよく登場し、そのたびに全く異なる姿で描かれる。月の女神に由来あり。
○オリジナルの展開
妖精たち、恋人たち、職人たちの3つの世界が交錯し、時に影響を与えあいながら進む。
ーーー
オベロンとティターニアは、さらってきた人間の子供の所有権をめぐって仲違いを起こす。怒ったオベロンはいたずらを企て、浮気草から薬を作った。これを誰かの目に塗ると、初めて見たものに強烈な恋心を抱くようになってしまうのだ。しかしこの薬が原因でドタバタ劇が始まり……。
ーーー
職人たちは集まって「悲劇・ピラマスとシスビー」を演じる。三文芝居もいいところだったが、逆にそれが興を買った。物語は混沌とするも、最後はあっけなくすべての問題が解決してハッピーエンド。
・ティターニアとしての柳場ぱんだ
「なんかさ……届きそうな気がするんだよ」「あの頃のシリウスに」
柳場ぱんだは一般人ではありません。その性質は移り気の妖精です。
ぱんだは幼い日に初めて見たシリウスの劇にずっと執心しています。それは恋心と呼べるほどのもので、浮気草の薬がべったり貼り付いているぱんだは、流石のことが目に入らなくなっています。
ぱんだのセンスは「観客の声を聞く」こと。その観客の中にさえ、役者である流石は入れません。
・交錯する3つの世界
あらためて絵を描きました。別窓で開いておくと便利かも。
これでようやく名前を捨てる意味が通ります。両家のいがみあいを、悲劇の世界 vs 喜劇の世界と見立てます。すると、流石は「ロミオとジュリエット」のロミオ、ぱんだは「夏の夜の夢」のティターニアという肩書きを持っています。これを捨てることができれば、二人は世界の隔たりさえも飛び越えられます。
・流石にとっての運命
流石は悲劇の世界の住人です。自分にロミオの名が刻まれている限り、運命に勝つことだけは絶対に出来ません。流石がどんなに「何でも出来る人」のように振る舞ったとしてもです。
そんな名前なら早く捨てたいところですが、そのためには相手が自分に恋心を向けていることの確認が必要です。ロミジュリの恋人たちは勝手に自分の名前を手放したりはできません。
しかし、駄目です。ぱんだは移り気なティターニアなので、ジュリエットのように恋心を向けてはくれません。「名前を捨てて!」という大切なセリフも第八場からは抜け落ちています。あるのは自分が愛を求める言葉だけ。流石は何度も秘密裏にアプローチをかけていますが、ぱんだはその悉くに愛を返しません。
「君の愛が得られないまま生きるのは、死よりもつらい!」
第八場の劇は、ロミジュリ改め「ピラマスとシスビー」を悲劇から喜劇に書き換えたことから始まります。しかしそのせいで、ぱんだの愛を得られない流石は毒を飲んで死ぬことすらできなくなります。喜劇に書き換えたことが悲劇を呼んだ、とはあまりに皮肉な話です。
「少しは近づけたかな、あの頃に」
「どうだろう。でも、楽しい思い出にはなったんじゃないかな」
物語のラストでさえ何も変わりません。冒頭のセリフと同じく、ぱんだは最後まであの頃のシリウスにばかり恋心を向けています。こうして第八場は、喜劇を騙った悲劇として幕を閉じます。
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・これは本当に「ロミオとジュリエット」の物語
「ピラマスとシスピー」を、言うなれば「ロミオとティターニア」の物語と見たとき、流石はどこまでも報われない結末を迎えます。救いはありません。でもどこかにハッピーエンドがあってほしいです。
そこで、このお話は本当に「ロミオとジュリエット」の物語だったと信じることにします。つまり二人は両想いだったと仮置きしてみます。
・ぱんだにとっての運命
ぱんだは喜劇の世界の住人です。ロミジュリのような陰惨な運命とは無縁のようですが……。


ぱんだは初めて見たシリウスの劇に執心しています。ただもっと詳しく見ると、シリウスの劇で見たロミオ役に心を奪われています。ぱんだは本当はずっとロミオを見ているのです。ただその視線が役を向いているだけで。浮気草の薬は、ほんの少しぱんだの視線をズラしたに過ぎません。
幼い愛の言葉を受けた日、ぱんだはわざと曖昧な返事をしたのかもしれません。ロミジュリにおいて幼い愛は危険なものです。互いに愛を燃やし合った恋人たちは、その激しさと引き換えに、一瞬で焼き尽くされ死んでしまいます。劇中で流れる時間はたった5日しかありません。
ぱんだは賢い子です。流石の幼い愛に応えることが、なにか自分たちを破滅に導くことを察しているのかも。すると今もそれは変わりません。13才だって十分に幼いのです。
少しだけ他の回も見てみます。


「キミに興味があるんだ! ……ぱんだが」
静香を誘うのは流石ですが、実際に興味を持っているのはぱんだです。カトリナがさらわれるときも、主犯はおそらくぱんだの方*2。第八場でも絵画、鉄棒、砂場とあれこれ興味を移しては後から流石に超えられています。
ぱんだは移り気な性格に自覚があるのかもしれません。もしそうだとして、ただ一人に愛を捧げるロミオに恋をしてしまったら。愛を返して、後から自分の気持ちが移ろってしまったら……ここから先は乙女心の話です。
流石に愛を返さないのでなく、流石に愛を返せないだけなら、これは地獄の運命です。流石は一言でも愛が返ることを期待してアプローチをかけてくるのに、ぱんだはそれを承知で無視を決めなければいけません。
・この舞台はどうやって喜劇になるの?
ぱんだはティターニアでありつつも、伝えられない愛があるとして舞台を見てみます。
「ああロミオ、愛してくださるなら、心からそう言って」
ぱんだはこの台詞のとき悲痛な表情をします。本来このシーンは互いの愛を確かめ合う幸せな場面ですが、ぱんだは愛を返せないのに、流石に愛を求める台詞を言わなければいけません。無理をしたせいか転びもします。
「神聖なる月にかけて誓いましょう。心からの、愛を」
原作のジュリエットはこの台詞を撤回させます。「月に誓うのはやめて。日ごと形を変える移り気な月のように心が変わるといけないから」と。ただ今回、この台詞は真実の愛を伝える言葉として成立します。ぱんだは移り気で月の由来を持つティターニアだからです。
ぱんだは移り気でもその目にロミオを捉え続けていて、胸の内に応えるだけの想いがあったなら、流石の愛は届いています。そして愛を確認できた恋人は、自分の名前を捨てることができます。
ぱんだは「夏の夜の夢」のティターニアという名前から解放され、流石のいる恋人たちの世界に入国できます。この世界の名前は「ロミオとジュリエット」といい、流石とぱんだは同じ世界を見ながら、ロミオと名も無き恋人として歓喜のバレエを踊ることができます。
この舞台にジュリエットはいません。いるのはロミオ、ティターニア、そしてロミオの名も無き恋人です。ロミオは相手の愛を確認できていないので名前を捨てていません。だから運命の二人の逢瀬が叶った世界の名前を指して、第八場のタイトルは「ロミオとジュリエット」なのです。
少し前に「ロミオとティターニア」として見たときは悲劇だったのに、再び「ロミオとジュリエット」として見られるようになると確かにこれは喜劇です。今、ここに悲劇は喜劇に書き換わりました。
・・・今のところはこのように解釈しています。捉えどころや解釈は様々にあると思います。
・現実という悲劇
劇中劇「ピラマスとシスビー」は、この劇を上映した世界と対になる関係を持っています。今回で対になるのは、作中の二人を取りまく現実そのものです。
先ほどのやり取りは、本当はすべて「ピラマスとシスビー」の内側での出来事に過ぎません。一日限りの夢のような逢瀬が終わってしまえば、二人はまた現実に戻っていきます。


季節は夏、実際に浅草で開催されている「ほおずき市」*3の様子が映ります。
「ピラマスとシスビー」の逸話より、白い実をつける桑の木が、二人の悲恋を見た末に血のような真っ赤な実をつけるようになったという話があります。そしてほおずきもまた白い花から赤い萼をつける花です。この象徴的なものがこちらの現実にまで手を伸ばしているのは妙に生々しい気分です。
・現実の悲劇は書き換えられないの?
現実ではこれまでと同じように、お互いに見つめ合うことも、愛を確かめ合うことも出来ません。二人は名前に縛られたままです。


「ここで有名になったら、さっすーに……」
この言葉に続くのは「さっすーに勝てる」ではなく、「さっすーに想いを伝える」だったのかもしれません。


「一緒になろうぜ! 可愛いぱんだと、何でも出来るさっすーで、ダイスターに!」
「うん!」
いつかダイスターになれたら、それも「一緒に」ダイスターになれたなら、そのとき二人は初めてお互いに愛を伝え合い、お互いの名前を捨てられるのかもしれません。
流石は愛した人を燃やし尽くしてしまう運命から、ぱんだは恋人から気持ちが移ってしまう運命から解放され、二人はハッピーエンドを迎えられるのでしょう。永遠に変わらない幸せな日々を、夢ではなく現実で。
二人がいつダイスターになるのか、そもそも本当になれるのかは分かりません。でもちょっとだけ覗き見をするなら、ED『名もなき恋人よ』には二人の未来が書かれています。もちろんこれは夢を語った歌詞かもしれません。だけど夢じゃないと信じるなら、EDはダイスターになった後の二人を映しているのかもしれません。
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